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タルーの村 タライ平野 Nepal 1995

シャイニー・チョードリ物語 

― ネパール南部タライ平野に暮らす先住民族タルーの村 ―

 

 

ネパールの首都カトマンズまで約7時間のフライトだった。

出迎えに来てくれた友人と合流し、さっそく予約していたホテルへと向かった。

友人の名前はシャイニー・チョードリ。

彼女とは栃木県のアジア学院で出会った。

アジア学院はアジア、アフリカ諸国からの研修生を1年間受け入れ、主に農業を通して各地域のリーダーを育てることを目的としたNGO組織である。

そこで働いていた日本人スタッフ2人とカメラマンの私との3人で、研修を終えネパールへ帰国していたシャイニーさんのソーシャルワーカーとしての活動の様子を取材するため1995年ネパールへ飛んだ。

 

カトマンズからダングという町までバスで12時間。

かなりくたびれたオンボロバスだった。

座席シートの居心地は悪く、背もたれが壊れているのか微調整ができない。レバーを引くとズドン!と勢いよく後ろまで倒れてしまう。

車内には冷房はなく、走っている間は窓からの風が心地よいが、停車すると窓から射し込む強い陽射しをまともに受け、車内は暑く、息苦しくなる。

途中バスは何度か故障しながらも、なんとかダングの町に到着した。

長時間バスに揺られた体はフワフワと浮いたような感じになり、疲れ切った体を休ませるため下町の安宿に宿をとった。

翌朝またバスに乗り、1時間ほど走ってからバスは大きな川の前で止まった。ここからは徒歩で川を渡らなければならない。荷物を頭の上に載せ、腰まで水に浸かりながら歩いて渡り、さらにジャングルを抜け1時間ほど歩いてから、やっとシャイニーさんの暮らすトイコラ村にたどり着くことができた。

 

ここはネパールの南部、インドとの国境沿い一帯に細長く広がるタライ平野である。

広大なジャングルを切り拓き、ネパールの中でも独特の文化を持っている先住民族タルーの村が多く点在している。

かつてはマラリアが猛威を振るっていた地域だった。

そのため外部の人間が立ち入ることができずタルー民族の文化が守られてきた。しかしマラリアの影響がなくなると上級カーストの人々が入ってくるようになり、彼らはタルーの土地を次々と奪っていった。

下級カーストとされているタルーの人々は、ほとんどが字を読めない。何もわからないうちに契約書にサインをした事にされ、気がつくと大部分のタルーたちは小作農民になってしまっていた。

その現実に怒りを抱いた一人の女性が今回取材させてもらうシャイニー・チョードリさんだった。

 

シャイニーさんはトイコラ村で生まれ育ち、今もこの村を中心にタルー民族の生活向上のためにソーシャルワーカーとして働いている。

トイコラ村は典型的なタルー文化の村で、今でも女性たちはカラフルな民族衣装を身に着け、土で造られた家の壁にはさまざまな模様が施されている。

電気、水道、ガスなどのインフラ設備はなく、まったく昔ながらの素朴な生活が現代においても続けられている。

村には牛が多く、道端の至る所に牛の糞が転がっており、子供たちがそれらを拾い集め、燃料や土壁の材料として利用されている。

 

一見、のどかに見える村の生活は、実は厳しくさまざまな問題を抱えていた。

村人の多くは小作農民として米を生産しているが、その収穫の大部分を地主に搾取され、残った僅かな農作物でギリギリの生活を送っている。

いくら働いても地主に酷使され、貧しい生活はいっこうに改善されず、貧困から抜け出せないタルー民族の現実。

「真面目でよく働くタルーの生活が、どうして良くならないのか疑問だった。父が地主のために朝から晩まで農作業に明け暮れているのが、どうしても我慢ならなかった。」と語るシャイニーさんはある日「文字さえ読めれば騙されることもない、地主にこき使われることもない」と教育の必要性に気づき、小学校に通い続けた。

 

タルーの村では女の子が進級していくのは稀で、ほとんどは経済的な面や勉強についていけない、などの理由で辞めていく子供たちが多い。

学校では違うカーストの子も一緒なのでタルーの女子ということで差別されたり、虐められたりしたそうだ。

高校へは毎日、川を泳ぎ渡って通学した。村中の人々、とくに何故か女性たちからの非難もあった。父親や周りにいるほとんどの男性から女のくせにと勉強することを反対された。学校の先生たちでさえも最初はあまり好意的ではなかった。

しかしその様な逆境の中、彼女は学校に通い続け、日本で言うところの短大(通信制)まで進んだ。学費は、ただ一人彼女を支えてくれた母親が編んだタルーの民芸品であるカゴやゴザを町の市場で売った収入で賄われた。

 

村の女の子が必ず一度は経験しなければならない収穫祭での踊りがあるが、シャイニーさんの母親が村で唯一の踊りの先生であるのにもかかわらず、彼女は一度も踊ったことがない。

「収穫祭の一か月前から始まる踊りの練習の時間は、誰からも邪魔されない勉強の時間だった。」と笑いながら話すシャイニーさんの目は輝いていた。

女性に教育など必要ない、という考えの村社会の中で、一人学校へ通い続けた。一度も女の子の民族衣装も着ず、踊りもしない異端児だった。

 

シャイニーさんは13歳の時、読み書き、計算が完全にできるようになった。

ここから彼女の崇高な活動が始まったのだ。

まず彼女は女性や子供たちに対して読み書きのナイト・スクール(ランプの灯りの下での勉強会)を自分の家で始めた。

一軒一軒の家をまわって呼びかけた。

旦那さんに反対される女性たち、また多くの村人たちにも反対され、時には喧嘩もしながら呼びかけた。

最初からうまくはいかなかったが、少しずつ女性たちが集まってきた。

シャイニーさんは教育を身に付けることの素晴らしさ、特に教養があれば考える深みが身に付くことを教えていったのだ。

 

このような活動を続けていくうちに、BASE(ベース、ネパールのNGO組織)との出会いがあり、ランプの燃料や鉛筆などをサポートしてもらえるようになった。

その後、シャイニーさんは自分の村だけではなく、タルー民族全体の識字教育の活動を広めて行った。その活動が認められ短大卒業後、彼女はBASEのスタッフとして採用された。僅かではあるが給料も貰えるようになり、そのお金で弟の学費や村の女の子たちの学費をサポートしていった。

 

今では(私がシャイニーさんに出会ったころ。当時、彼女は24歳)シャイニーさんの活動も村の人々から理解してもらえるようになり、彼女のひたむきに努力を続ける姿勢に感化された多くの女性や男性が、生活向上のための活動に積極的に参加するようになった。

彼女は多くの村人の良き相談相手となり、常にいろいろなアイデアを提案している。しかしその反面、今でも続いているナイト・スクールでは他のカーストの嫌がらせとみられるレイプ事件などがおこり、女性たちが安心して勉強を続けられない、という問題も生じている。

これまでにシャイニーさんが訪ねた村は6県にまたがり800村を超える。

ほとんどの村が歩いて何時間もかかる地域にある。途中にジャングルなどがあり、野生動物(トラもいる)や山賊から身を守るためにナイフを常に携帯していると言う。なんと勇気のある女性だと、私はただただ驚いた。

タルー民族の生活向上のために働くシャイニーさんの活動は、カーストの差別が厳しいこの社会では容易でない。

私たちと旅を続ける一か月半の中で、町の食堂やホテルで会った人々からシャイニーさんは名前や出身、職業などをよく質問されていた。苗字でタルーということは直ぐに分かるので、当然カーストの位も分かってしまう。

タルーでしかも女性なのに、どうしてこんな所でしかも日本人と一緒にいるのか、どうして就職できたのか、とほとんどの人が不愉快そうな顔をして尋ねてきた。とても感じが悪く、その度に心を痛めているシャイニーさんを見るのが辛かった。

彼女に言わせれば、こんなことは日常茶飯事という。

「BASEの活動をしていくには、いろんな場所に出かけるので、当然いろんなカーストの人と会う機会も多くなる。その度に闘っているのよ!!」。

このような活動を続けて行く中で、精神的に辛くなる時はないか、との私の質問にシャイニーさんはこう答えた。

「時々あるが、そんな時はマザー・テレサやネルソン・マンデラなどの偉大な人物の本を読んで勇気をもらうの。」

 

シャイニーさんの夢は、BASEで働いたお金で土地を購入し、そこに農業、生活改善、保健衛生などを教育するための施設をつくることである。誰もが気軽に学べる場所を提供したい、と語る彼女は生涯結婚しないそうだ。

「結婚して一人の子供を育てることも大切だが、私には育てなければならない子供たちがたくさんいる。」とシャイニーさんはきっぱりと言い切った。

 

シャイニーさんとの長い旅が終わり、私たちは帰路についた。

疲れ切った体で、しかも謎の熱病(マラリアではなかった)にかかってしまった私は、再びあのオンボロバスに乗る気力も体力もなく、国内線の飛行機でカトマンズまで帰った。

窓からは神々の宿る神秘の大地、ヒマラヤ山脈がハッキリと見えていた。

 

後日談ですが、今から2年ほど前の2022年にシャイニーさんから連絡がありました。

なんと彼女が暮らしているトゥルシプル市の副市長になったそうです。

これまでのシャイニーさんの活動を支えてきた多くの人々が彼女に期待し、カーストの壁を乗り越えて彼女を当選へと導いたのでしょう。

シャイニーさんは今、彼女の家(シスター・ホームと呼ばれている)に、恵まれない子供たちを受け入れ、教育の機会を与え、また副市長として、これまで通りの活動を続けているそうです。

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BASEで働くシャイニー 1995年

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